砂谷牛乳創業ストーリー
広島から作家を目指して東京へ
生家は村随一の資産家
砂谷牛乳の創業者久保政夫は、明治38年に佐伯郡砂谷村(現・広島市佐伯区湯来町)に生まれました。生家は村随一の資産家で、父謙一は「この子は官立の学校に入れて立派な医者にしたい」といつも言っていた。

明治38年
学校を中退して東京へ
大正12年

最も入学試験の難しかった広島県立第一中学校に難なく合格しましたが、大きな憧れと夢と理想に生きようとする青春の魂は文学少年の欲求不満を充足してくれるものではなかった。父の猛反対を振り切って退学を決行した政夫は、大正12年文学への夢を抱いてついに上京した。
文学への不満と挫折
上京以来の4年間に上野音楽学校、さらに第1外国語学校ドイツ語科、仏国大使館立アテネ・フランセなどで哲学・芸術そして語学に専心した。しかし、日本の作家の作品に欠けている平板さと底の浅さ、言い換えれば「生命的量感」の欠如を感じた。それは日本の作家たちへの不信に繋がり、政夫自らが創作の筆を進めれば進めるほど、その不信の念は増していった。


腎臓病を患う
ところが幼児より体の弱かった政夫は上京以来の生活の変化から腎臓を病んでいた。「病弱では新しい文学を切り開くことはできない」と考えた政夫は郷里の父に現在の心境を訴え、健康を回復して生活を立て直すために友人の勧めもあって、「八丈島に渡り農場をやる」と書き送った。
乳牛の島、八丈島へ
健康のために
八丈島が乳牛の島であり強烈な夏の日差しを受けて作ればなんでもできること、しかも島の農業が非常に遅れていることなどを聞いていた。「八丈で乳牛を飼い、自ら乳を絞り、それを飲もう。また新鮮な野菜をふんだんに作って食べるんだ。」
こうした計画がすでに政夫の胸に熟していた。
文学と生産の夢を乗せて八丈島へ
十日に二回しかないという定期航路の島への連絡船は、新しい生活の建設に向かう一人の青年を乗せて船脚を南へ伸ばしているのだ。新しい生活への船出である。回想を断ってしばらく立ち尽くす青年の顔は生き生きと上気していた。
土地を借りて開墾
島の娘の家は、構えの大きい家で島での素封家であった。家のご主人は幸い土地を広く持っており政夫の申し出によって開墾可能な山林を解放してくれた。かくて全くの素人が農業をやる土地を得たのである。
一坪から二坪へ十坪から二十坪へと開墾が進み、開墾した後へはすぐ野菜を作った。作らなければ食っていけないのである。一本の野菜も伸びるとすぐ金に替えた。早朝から夜まで一心不乱に病気を忘れるまで働く日々が続いた。


牛乳が病気に何よりの栄養
東京では一升の牛乳が1円していた(昭和5年)、ところが八丈島ではわずか一升6銭で親の援助を断ち切って生きていく上で経済的に助かると思った。自然の猛威にさらされた八丈島が、遠い南の嵐の島であろうと少しも恐れることはなかった。しかも「牛乳が病気に何よりの栄養」だった。




船内で島の娘と知り合いに
政夫が船内の人たちを見ている時、いかにも島の女らしい一人の女性が声をかけてきた。「学生さん八丈へ何しに渡るんです」「養生のために農業をやろうと思うんです。乳牛でも飼おうと思って」善良な島の女は政夫のキラキラと光る目の底に「この人は何かをやるんだ」と読み取った。
「私のところに来てください。遠慮することないから」
島で生きる決意
しかし、いつまでも船で知り合った娘の家に厄介になるわけにもいかなかった。資本も体力も技術も持ち合わせぬ新参者で気候風土の違う八丈島で農業を営むことは全くの冒険だったが、この島の百姓になろうという政夫の決意は固かった。自主独立の本拠とする家はないものか物色していたある日、島の老婆が急に東京に行くことになりその家を早速土地付き15円で入手した。
「知識の吸収と実践」をモットーに
風の島八丈島の農業改革
「鳥も通わぬ八丈島」と言われるほど風の強い八丈島では、台風期には風速40メートル、冬は15メートルの風が吹く「風の島」である。八丈島の島民たちの農業は、風邪を防ぐことに大きな精力が費やされる。政夫は島の農業を飛躍発展させるためには大自然の猛威を制圧し集約的な農業に改革することが大切だと感じた。
新鮮な野菜に飢えていた島の人たち
城塞栽培によって波浪を食い止め、この島では作れないとされていた野菜がこれにより作られ始めた。これまで定期船に積まれて東京から来る鮮度を失った野菜を買っていた島の人たちは、政夫の作った新鮮な野菜に飛びついた。何を作っても素晴らしくできた。その上年中なんでも作れ、作れば売れるしあらゆるものを作った。
牛の八丈か、八丈の牛か
政夫は島でただ一つ電気の通わない我が家から開墾の鋤を担いで畑に向かっていた。また、一方では海岸の空き地を無料で借り受け粗末な小屋を作って鶏を飼いさらに家の後ろ側に簡素な牛小屋を作った。資金がないため乳牛の親牛を買えなかったので雑種の仔牛を一頭8円と言う安値で手に入れた。「牛の八丈か、八丈の牛か」と歌われる八丈島に来て仔牛ではあったが、人並みに牛を飼い始めた。



昭和14年
「城塞栽培」の着想
政夫は開墾地の集団化をはかり、周囲に「防風林」をしつらえ、「防風垣」を作ることを思いついた。防風林として島に多い桑の木と様々な牧草を植え風を遮蔽した。海岸畑の耕土といえば八寸足らずでその下は一面の火山岩からなっている。作物に十分根を下ろさせるには、岩石を掘る以外に道はない。石を掘り起こして土を作りその岩石を持って「防風垣」を築くことは一挙両得だった。この計画は「石垣を築く」という奇想天外な着想だった。この石垣に着想して何年かののち東京都の農事試験場の技師が来て、「城塞栽培」と名付けた。

無一物から生きる人間のたくましさ

昭和15年
一夜の暴風雨のために苦心して建てた牛舎も鶏舎も吹っ飛んでしまったことがある。「風にやられても惜しいとも残念とも思わない。若いうちの災難は、何でも来い。どんな災難でも乗り切って見せる」と再建の決意に少しもひるまなかった。渡島三年目には鉄筋コンクリートの家まで建設した。十五円のあばら家から三年目には立派な新居を建設したが、これは言語に絶する自然との戦いが強靭な人間の力によって獲得されたものだった。無一物から生きてゆく人間のたくましい意欲に貫かれていた。
八丈島から広島砂谷村へ
上京して20年ぶりの帰省
島の生活10年の間に政夫は郷里砂谷の土を踏まなかった。そんなある日一番末っ子の妹から一通の便りが届いた。広島の女学校卒業後結核に冒されたこと、二つ上の妹も今結核のため入院していることも書かれていた。政夫は、自分も体が弱くて苦しんだけれど八丈島に来て毎日牛乳を飲み、新鮮な野菜を食べ、一心不乱に農業をやりだして今では健康な体になった。お前達も島に来い。一緒に生活しよう」と妹達に手紙を出した。妹二人は早速にも島に来るよう言ってきたが、父親は許してはくれなかった。
幾日かすぎ突然末の妹が亡くなったという電報がもたらされた。政夫は妹の死に心を駆り立てられ取るものもとりあえず郷里に急いだ。

大きな転換の動機
「自分はかつて妹達に島に来て療養しないかと伝えたが、遂に来られることなく死んでしまった。来られない事情がこの家と農村にあるのだ。来いと誘う前にこの村に飛び込んで幸福になる農業を営むべきではないだろうか。もっと早くこれに気づいていたなら・・・」この時目にした農家のあまりにも貧しい経営と生活は、政夫に大きな転換の動機をもたらした。

昭和16年
郷里で牛舎建設の準備
政夫は妻久子に思い切って自分の決意を話した。
久子は「あなたはこの島の先生と仰がれる立派な仕事をなさいました。私のことなら心配せずあなたの思う道に進んでください。と答えた。
政夫は再び郷里砂谷へ向かった。島で愛育している乳牛を移入するため砂谷にその牛舎を建設するためだった。父親を説得し遂に「ではお前の要求通り向う山の台地を任せよう、自由に使え」と言ってくれた。政夫は、台地への牛舎建設の当面の用意を終えると直ちに八丈島に引き返し離島の準備に取り掛かった。島では、政夫の離島と言う大ニュースに湧いた。

